自分の頭と身体で考える【本と私②-2】

こんにちは!

作業療法士のOがお届けします【本と私】、このシリーズは私の心をわし掴みにした書籍たちの紹介です。きっちりしたレビューは無理なので、ゆるーい内容になりますが、もし興味が湧いたらぜひ読んでいただきたいと思う書籍を選んでおります。(AmazonやYouTubeへのリンクを使用しておりますが、アフィリエイト等ではありません)。


さて、②-1では全く本題に入れませんでしたが、今回紹介したいのは‥‥


自分の頭と身体で考える 養老孟司 著 甲野善紀 著

PHP研究所 1999年10月


です!!
リンク先は文庫版なんですが、私が持っているのはハードカバータイプのこれ。
美しいですね。
この本、ジャケットをはずしても
この絵が印刷してあるのも嬉しいです。
とはいえ、本のせいで床がたわんできてしまったので、最近は紙の書籍しか販売していないものを除いて、電子書籍しか買わなくなりました。本の整理難しいです。


この本は甲野先生と養老孟司先生の対談本です。会話形式なので読みやすく、一方で、もう少し深掘りして聞かせてほしい、そこの会話の間にある背景省略しないで、と思うところもあるんですが、それは他の著書で補うスタイルで。

甲野先生の魅力は【本と私②-1】でお伝えした通りですが、養老先生も非常に魅力的な方です。養老先生は常識を端から疑って、新たな視点を小気味よく示してくださるので、読後に胸がすくような爽快感があり、つい買ってしまうんですよね。いわゆる私の’推し’です。そのうち養老先生の単著も取り上げたいなと思っています。



そんな養老先生が、この本の頭の方で、

”‥‥動きの説明というのは、‥‥「これがこう動いて、次、こう動いて、それからこう動いて」というように時間軸上を単線的に説明をしないと、説明にはならない。そう思い込んでいる。”
’’甲野さんの説明が従来の運動の説明と何が違うのかと考えると、「筋肉ってたくさんあるでしょ、関節もいっぱいあるでしょ、我々がやってるのは、その同時並行処理でしょ」‥‥それは普通の運動の説明とは違う。‥‥おそらく運動とは時間軸上を一直線に動くもんだ、というものすごい強い偏見があった‥‥”

と、このように、養老先生が甲野先生の言動から思いこみや偏見に気づくくだりがあり、最初からわくわくしてしまうわけです。ただ、この本は1999年10月初版と、地下鉄サリン事件や薬害エイズ事件、阪神淡路大震災など強烈な出来事が起きたばかりの頃のため、陰鬱な雰囲気が全体に漂ってもいます。


そして、’常識’を常識としない二人が、その期待を裏切らずに、偏見、思いこみ、当たり前を一刀両断に切り捨てていくのですが、当時はこの内容が予想を裏切るものばかりで、驚きの連続でした。25年近く経った現在では広く知られているものもあり(『悪魔の証明』『働きアリの法則』など)、時の流れを感じさせますね。


この本の中で、養老先生が(私の独断と偏見で)もっとも多く繰り返しておっしゃっていたのが《日本は法治国家ではない》という話なのです(ちなみに数えたりはしていません)。以下は、それがなぜなのか、日本語話者と英語話者の特色を比較すると透けて見えてくるというくだりになっています。

”漢字は前後の関係でそれを音読みにするか訓読みにするかっていうことになるわけですが、そこに、一文字の漢字だけあったら「これ音訓どっち読みなのかな」と思いますよね。でもそういう、どっちつかずの状況でいるっていうことは、あるいは外国人には我慢ならないことかもしれませんね”(甲野先生)

読んだ当時はそんなもんなのかな、くらいに思っていましたが、現在はリアルな感想を確認することができます。音訓くらいは許されてそうですかね。ちなみに中国も漢字を使うけどどうなのかなと思ったら、こんな感じでした。音読みは中国から伝わったもので、呉音、漢音、唐音などがあり、訓読みは日本語を当てはめたものだそうです。これも掘り下げると面白そうですよね。


”僕が外国に行って一番印象的だったのは、言語が世界を規定しているという感覚でしたね。だから論文を英語で書いて、どうも上手に言えないんだけどって、向こうの若い奴に言ったときに言下に言われたのは「英語で言えないことはない」なんです。英語で言えないことはないっていう意味は「どんなことでも言葉になる」という意味じゃなく「言葉にならないことは伝える意味がない」ということなんです。言葉にならないことであれば、他人に言えないんだから、それはないと同じだろっていうことなんです。そういう信念が日本人にはないということははっきりしています。
言語的に構築される世界と人間が作っていく世界は同じものだから、法治国家なんです。”(養老先生)

”他人に伝えられないことはないも同じだっていうのは、これは日本人にはとても理解できないことですね。つまり重要なことというのは、文字や言葉に言い表せないというのが、日本の文化の特色のように言われていますから。それこそ不立文字(ふりゅうもんじ)で有名な禅とか武術とかそういう体の感覚の世界では当然の常識ですからね。”(甲野先生)


このあとにグローバル化する世界で日本は生き残っていけるのか、なんていうお話が続くんですが‥‥、ざっくりした感覚で、上の件は古典物理学と量子力学の関係に似てるような気がしてきて、もしそうなら、ニールス・ボーア的に眺めてあげると、日本語のような一風変わった言語あるいはそれを使用した哲学を補うことで初めて完全になって、新しい世界観が創造できるんじゃないか、とロマンを感じてしまうわけです。
あ、もちろん、私は物理学なんて全く詳しくないですから、適当なことを書いてますので、そこはご了承くださいね。


‥‥実は、この流れで量子力学系統の本の紹介にいこうと思って書いていたのですが、’ロマン’という単語で思い出した文章がありまして。こちらの方が面白そうなので、一気に方向を変えます。

”平安時代のプレイボーイは、性に命をかけることに、ロマンを持っていた。在原業平を知っているだろうか。天皇の女を盗んで、背におぶって逃げたんだ”

稀に見る破壊力を持った言葉ではありませんか?次回は、こんな強烈な文章が徹頭徹尾貫かれている本を紹介しようと思います!

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